2012年3月9日金曜日

国家システムの危機1

国家システムの危機1

国家システムの危機1

―連載の開始にあたって―

松本祥志

1. 新連載開始のご案内

 20世紀もあと1年で終わる。21世紀を目前に控えたこの時期に、世界の基礎的な構成単位である国家について思索し問題提起することは、殊更に有意義であろう。20世紀は、西欧の国家システムが強化・規範化・拡散された世紀でもあったが、一方では人民の権利を含む国際人権の観念を誕生させ、非国家的アクターであるNGOの世界的役割を飛躍的に増大させた非国家キャンペーンの世紀でもあった。

 NGOの役割の増大は、普段に国家システムの自己完結性ひいては妥当性に挑戦する。NGOの一つである札幌国際連帯研究会(SIIS)の月例研究会での議論でも、国家システムの危機に論及されることは稀ではなかった。そこで、SIISのニューズレターinter-Cにおいて、これまで連載してきた【世界のNGO】に加え、【国家システムの危機】を連載することにした。非会員も含む国の内外からの〈意外な〉寄稿がこの新連載の社会的意義を高め、とかく疲弊しがちなジプシー的SIIS事務局の疲労回復剤となる。

2. 国家システムのグローバリゼーション

 プロテスタントとカトリック教徒との間で30年間にわたり続けられた悲惨な戦争を〈住み分け〉により終結させるため1648年にウェストファリア条約が締結され、国境で分けられた近代国家が誕生させられてから、今年で丁度350年目になる。今日、西欧で誕生した国家システムに対して提起されている様々な原理的・実践的諸問題を前にすると、350年が長過ぎたように思われる。


黒人男性は家の人間であることを好むん。

 その間近代国家の主権概念は、国際的にはアナーキーを、国内的には秩序ねつ造のための画一化をもたらしてきた。たとえばマックス・ヴェーバーは、近代国家を「鋼鉄の檻」として描き、官僚制的監視テクノロジーによる市民の封印を見抜いた。またミシェル・フーコーの「ミクロ精神物理学」は、合理的に国民を管理するための技術論としての「権力のテクノロジー =身体の政治学」をあぶり出した。そしてサイードによれば、国家はそのために、名誉や給与のご褒美によって専門家を「たらしこんできた」のであり、専門家は「たらしこまれてきた」のだという。かくして、何の見返りをも求めず自らの楽しみとして研究するアマチュアこそが、国家を論じるのに最も卓越した資格をもつ知識人ということになった。原稿料も名誉も支払われず、赤字の脅威に怯えながら一月遅れのナンバーのための原稿集めに胃腸を病ませる〈世にもマイナーな〉inter-Cこそが、【国家システムの危機】を問題提起し、国家に一貫して抗議・抵抗し、ひたすら国家に「うとまれる」のを喜んで、または進んで生活の一部とするのに最適かつ希有な知的・詩的空間なのである。

 とくに冷戦構造崩壊後の世界においては、経済のみならずグローバリゼーションへの傾斜が強化されつつある。民主主義と自由に関する西欧モデルの下でのグローバリゼーションは、世界の画一的な西欧化に導く懸念がある。それは、諸国家の差異を減少・消滅させることにより、人類が国境で"別居"することの必然性、それゆえ国家システムの理念的な存在意義を相対化する一方で、この西欧モデルを普遍的に妥当するとの信仰を非西欧世界あるいは"オリエント"にますます強要することになる。


文字ESPNは何の略ですか?

 しかし、それには実践上の膨大な問題が山積されてきた。国内においては、日常化された腐敗・偽満・不正が西欧的な民主主義と自由の理念の一部かと錯覚させるほどである。また海外においては、かつて植民地に西欧的な民主主義と自由が出現するのをその首唱者である西欧自らが阻止するのに流血をいとわなかったし、現在ではIMF・世銀の「構造調整計画」の押付け方あるいは爆撃の内には民主主義も自由も全く見当たらない。それらの問題の膨大さは、西欧的な民主主義と自由は果たして完全に達成されうる可能性のあるものなのだろうかと疑わせる程である。そしてこの疑問は、そもそも西欧的な民主主義と自由という理念そのものが果たして唯一絶対なのかという根源的問いを必然化する。

 ホッブズなどにおいて民主主義の理論的前提とされる平等原則は、もし人間(正確には男性健常者だけか?)以外を視野から排除しておくのであれば一定妥当するのであろうが、もし人間以外の生物などの自然環境をも視野に入れるとすると、平等原則は自然環境の破壊をもたらす人間中心主義と非難されうる。逆に、〈虫-人間-神〉の関係を兄弟のような右上がりの連続において捉える宗教を信仰する人々は、ときには人間をもカーストにより右上がりに差別する一方、虫をふくむ生物のために裸足で歩く。

 西欧における自由とは、そもそも何からの解放を意味するのであろうか。伝統的にはそれは国家などの客観的障害からの自由を意味するものとして語られてきた。しかし国家のような客観的障害は、人間の自由を制約する障害要因のうちのほんの一つにすぎない。しかも国家は制約の役割を果たすだけではなく、自由を保障するために不可欠な役割をも果たしうる。また自由とは欲望、嫌悪、恐怖など人間の自我からの解放、つまり、自由とは人間が人間であることからの解放であると信じる信仰に対して西欧の自由論はどう対応するのであろうか。自らが自分自身の神となって、自分自身で自我から自己解放すべきであるというニーチェやサルトルの潜在的勧告に従って苦闘したとしても、(人間の本来的な限界のせいで)不可避的� �でてくる〈神になれない人間〉について自由はどう論じられうるのか。


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 また民主主義や自由を非西欧世界に移植する方法として、民主主義的な方法ではなく、IMF・世銀の「構造調整計画」に頼ったり、ステルス機ないし巡航ミサイルに頼るのは民主主義的ないし自由主義的なのであろうか。西欧的な民主主義と自由を拡散するために非民主主義的に自由を奪う客観的方法に訴える行為は、民主主義と自由への信頼を前提していると言えるのであろうか。それはむしろ、西欧的な民主主義と自由に内在する狂暴性・排他性および外在する非普遍性を見せつける結果にしかならない。つまり、西欧的な国家システムは、無傷でも、完全でも、絶対的でも、普遍的でもないのである。

 その意味では、西欧的な国家システムに対するオールターナティヴとして、トン・カイの「地理的身体論(geo-body)」やジム・スコットの「国家的空間論 (state-space) 」なども、西欧的な国家システムを裏から照射するものとして示唆的である。社会を組織化するためのコンセプトは、国家システムだけでなく、質・量においてもっと豊かであっても良いのではないだろうか。つまり西欧的な国家システムの絶対視は、過激な原理主義とさえ評されうる。もっと視野を拡げて、西欧の〈他者〉が同じ眼線で観察・比較されなければならない。

3. グローバリゼーションと異文化理解

 上に指摘された諸問題に限らず、多くの深刻な問題を指摘されうるグローバリゼーションに対して、異文化理解が対置されうる。グローバリゼーションは、西欧の民主主義と自由を前提にしてその妥当性を一方的に主張し、この意味での妥当性の故にそれは普遍的であるとされ、その普遍的妥当性の帰結としてそれは非西欧世界にも導入されるべきであるとする論理は、明らかに間違っている。

 この論理では西欧モデルが真に普遍的な民主主義と自由であることは証明されていない。つまり、大概は西欧モデル を物差しにして、それに合わない異文化のモデルの不適切さを指摘しているにすぎない。しかしそれが確証されない限り、西欧モデルを非西欧世界に押付けることに正当性はないし、またあらゆる文化における様々なモデルが等しく普遍性の正当な候補なままである。かかる世界状況においては、いずれかのモデルが押付けられる前に、異文化理解が優先させられなければならない。


 それでは、まず誰が異文化理解と取組むべきなのであろうか―個人かそれとも社会か。ナチス・ドイツやボスニア・ヘルツェゴビナあるいはルワンダにおいて、年来の親友や同級生同士が、些細な何かをきっかけに、民族が違うという理由だけで殺し合うことになったことは、間人間レベルにおける異文化理解だけに頼ることの限界を物語っている。それは同時に、間社会レベルでの異文化理解の前提的な必要を暗示している。従って、間社会レベルでの異文化理解のための基礎的な枠組みが何であるか粘り強く探究されなければならないであろう。

 そして、〈異文化〉を〈理解する〉とはどういうことなのであろうか。つまり、異文化とは何なのか。そしてそれはどのようにして理解されうるのか。たとえばルース・ベネディクトの『菊と刀』に見られるような西欧文化の理想化による他文化の価値判断、文化の複合性や歴史性を無視した安易な類型化、先入観や願望にもとづく全体像の構成、特殊で部分的な経験の一般化などの弊害は、サイードの言う言説(ディスクール)としての『オリエンタリズム』とともに、克服されなければならないであろう。かくして理解された異文化から、西欧的国家システムを改善または代替しうる対象適合的なオールターナティヴがあぶり出されることが期待される。

4. おわりに

 西欧の国家システムにどのような問題および限界があるのか、国家と地方自治体との関係はどうあるべきか。国家と個人(企業も含め)ないし人民との関係はどうあるべきか、21世紀の世界はどうあるべきか、…。疑問は尽きない。夢が広がる。興奮する。

 それらを表象するのに法学的、政治学的、経済学的ないし社会学的カテゴリーが有効なのか、それとも哲学的、思想的、文学的、音楽的カテゴリーが有効なのかは予断されえない。それらの相対的な重要性はともかくとして、どちらのカテゴリーも不可欠である。つまり、国家システムは理性・感性・心性により全角度から観察・解剖・比較されなければならない。その表現様式は、実証主義的でも詩的でも物語的でも思想的でもありうる。体系的でも箇条書的でもありうる。それは英語で書かれてもよい。

 誰でもどこからでも国家システムを論じうるし、論じなければならない。空理空論・夢物語大歓迎。タブー厳禁。原稿受付中。



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