ポール・マッカートニー - Wikipedia
サー・ジェームズ・ポール・マッカートニー・Jr(Sir James Paul McCartney Jr, MBE、1942年6月18日 - )は、イギリスのミュージシャン。
ロックバンド・ビートルズの元メンバーとしてジョン・レノンとのコンビ(レノン=マッカートニー)で代表曲の多くを手がけた。ビートルズ解散後は、ソロの他、ウイングスのメンバーとして活躍した。『ギネス・ワールド・レコーズ』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定されている[1]。左利き。
1997年にMBEの称号を贈られる。
ファースト・ネームはジェームズだが、父親も同じ名前のためミドル・ネーム(ポール)を通常の名前として用いている[2]。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第11位。
世界で最も有名なポピュラーミュージシャン、シンガーソングライターの一人である。親しみやすく美しいメロディの作風に特色があり、ビートルズ時代においては「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」など、ビートルズの代表曲と言われる楽曲の多くを作詞作曲した。解散後の1970年代には、ウイングスのリーダーとして、1980年代以降はソロとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上を送り込んでいる。現在もコンスタントに作品をリリースしており、近年ではポピュラー音楽にとどまらず、クラシック音楽をも手がけている。
ビートルズ時代から現在に至るまで、バンドでの演奏では主にベースを担当している。ベーシストとしての評価は非常に高く、彼の弾くメロディアスなベースラインは、後のロックバンドのベーシストに多大な影響を与えたと言われる。他にもアコースティック・ギターやエレクトリックギター、ピアノ、シンセサイザー、キーボード、ドラムス、また管楽器をも扱うマルチプレイヤーである[3]。「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ウイングス時代の代表作『バンド・オン・ザ・ラン』では脱退したメンバーに代わってギターやドラムスを自ら演奏し、ソロアルバム『マッカートニー』や『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』に至ってはすべての楽器を一人で演奏(マルチレコーディング)している。
ボーカリストとしての才能も高く、ビートルズのメンバーでは最も高い声域を持ち、楽器を演奏しながらリトル・リチャードなどの難易度の高いロック・ナンバーを難なく歌いこなしている。一方でバラードにおける甘い歌声や、「レディ・マドンナ」あたりから披露した、エルヴィス・プレスリーを思わせる唸りを効かせた歌唱法など、多彩なボーカルを聴かせる。またその声を生かしたコーラスの一人多重録音も盛んに行っている。
- (注:1957年 - 1959年の間は、クオリーメンの項、1960年 - 1970年の間は、ビートルズの項、1971年 - 1981年の間は、ウイングスの項もそれぞれ参照のこと)
[編集] ソロ・キャリア
[編集] ビートルズ解散直後
1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、評論家からは作� �の極めて簡素で素朴な内容を批判された。
『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クレインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
[編集] ウイングス
詳細は「ウイングス」を参照
ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻・リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。
[編集] 1980年代
コンサート・ツアーの一環で行なう日本公演のためウイングスを随えて1980年1月16日、成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。
当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「カミング・アップ」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。しかし1980年12月8日(23時頃)、そのレノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。
レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソン、エリック・スチュワート、オービー・トライス、エルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。マイケル・ジャクソンとは彼の世界的な大ヒットアルバムの『スリラー』で「ガール・イズ・マイン」をデュエットし、またお返しと言う事でマイケル がポールのアルバムで「セイ・セイ・セイ」をデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。また、1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、サントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1980年代中盤にはヒュー・パジャムやフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。
ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、1980年代中盤は現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年にソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。1989年から翌年にかけて行われ、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を 躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏された。ツアーの一環で、1990年3月には24年ぶりの来日公演も実現している。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。
[編集] 1990年代
1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。
1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行われている。
1994年からは、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。
ここで、ジョンはブースウィルクスすべての場所が住んでいましたか?
1995年からはリンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。
[編集] 近年
2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。
2002年にはアメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2004年にはロシアのモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ� ��中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。
2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。
2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。 このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。
2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。12月、iTunes Storeでセレブリティ・プレイリストを発表し、ジーン・ヴィンセント、ビーチ・ボーイズ、レディオヘッド、セックス・ピストルズ、レイ・チャールズ、フレッド・アステア、キラーズ、ジョン・レノン(イマジン)、リトル・リチャード、エルビス・プレスリーを選んだ。
2010年9月22日、ポール・マッカートニーとコンピューター大手ヒューレット・パッカード社(Hewlett-Packard、HP)は、マッカートニーの作品をクラウド型のデジタル・ライブラリー化する計画を発表した。 HP社はマッカートニーのプロダクション会社、マッカートニー・プロダクション・リミテッド(McCartney Productions)と共同で、インターネット上で公開しながら、デジタル・ライブラリーを保護することが可能な最新システムを構築する。HP社によると、ファンは、マッカートニーのライブラリーの一部を「個人的に」視聴することができるという。 計画の詳細はマッカートニーのウェブサイト「paulmccartney.com」でも公開されている。
[編集] 日本公演
ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして3度訪日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の日本公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の日本公演を行うはずだった。しかし訪日直前になって法務省によりマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴でビザが取り消され、公演は中止となる。それから5年後の1980年1月16日にウイングスとして訪日したものの、今度は成田空港にて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され、ツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与え、彼自身は、出発前から書いていた曲に、「フローズン・ジャップ」という日本人を皮肉るタイトルを付けた(日本� �は「フローズン・ジャパニーズ」に改題)。
ポール自身は上記の曲を、「曲を作ったのは日本に行く前、雪化粧の富士山を思い浮かべて作ったんだ。偏見があるわけじゃない、もしあったのなら日本へ行ったりはしないし、悪口だったらちゃんと言うよ。そんなことを考えもしなかったから仮のタイトルをそのまんま残したんだ」 とコメントしている。
この事件は本国イギリスでも大きく報道され1月17日付のタイムズ紙では1面に手錠姿で警察へ連行されるポールの写真が大きく掲載された。
1980年の事件後にマッカートニーは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、彼の世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなった。日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来24年ぶりに日本公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行った。
1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び訪日し、東京ドームで3公演、福岡ドームで2公演を行った。
2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。
[編集] 公演日程
- Get Back Tour In Japan 1990年3月3日、5日、7日、9日、11日、13日 東京ドーム
- 尚、この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を、1日置きにして欲しい。」と要求し、7公演より6公演に急遽変更した。なお、3月8日公演に延期公演は設定されず、また他の6公演も全席完売となっていた為他の公演日に振り返ることも出来ず、結局中止となりチケットの払い戻しを行った。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんで欲しい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを、各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像にて楽しんでもらう企画)を行った。
- THE NEW WORLD TOUR 1993年11月11日、14日、15日 東京ドーム、11月18日、19日 福岡ドーム
- driving japan tour 2002年11月11日、13日、14日 東京ドーム、11月17日、18日 大阪ドーム
[編集] ディスコグラフィ
詳細は「ポール・マッカートニーの作品」を参照
[編集] オリジナルアルバム
※ウイングス名義のアルバムについてはこちらを参照 (チャート;英:ミュージックウィーク/米:ビルボード)
[編集] ライヴ盤および編集盤
[編集] ザ・ファイアーマン(The Fireman)名義
※ザ・ファイアーマンは、ポール・マッカートニーとユース(キリング・ジョーク、オーブ)によるプロジェクト。 結成当初は、覆面ユニットのインストゥルメンタル・アンビエント・ミュージックのプロジェクトであったが、3作目エレクトリック・アーギュメンツでは、ポール自らがボーカルと作詞作曲を務め、ロック色の強いバンドに生まれ変わっている。 また、前2作は、EMIからのリリースであったが、3作目では、世界各国のインディペンデント・レーベルと契約。日本では、Traffic Inc.からのリリースとなっている。(イギリスはONE LITTLE INDIAN、アメリカはATO RECORDSからのリリース)
- ストリベリー・オーシャンズ・シップス・フォレスト - Strawberries Oceans Ships Forest(1993年 廃盤)
- ラッシズ - Rushes(1998年)
- エレクトリック・アーギュメンツ - Electric Arguments(2008年)
[編集] クラシック作品
[編集] その他
(RAM に収録された楽曲をオーケストラ演奏でアレンジした作品)
Twin Freaks(ザ・フリーランス・ヘルレイザーと組んだリミックス・プロジェクト)
LOIS Daunの死の日はすることができ
- Twin Freaks(2005年) (LP、およびダウンロード販売のみのリリース)
[編集] ビデオグラフィ
- Rock Show(1982年) : VHS & LD
- Give My Regard To Broad Street(1984年) : VHS & LD & DVD
- Rupert and the Frog Song(1985年) : VHS & LD
- Paul McCartney Special(1986年) : VHS & LD
- Put It There(1989年) : VHS & LD & DVD
- Get Back(1990年) : VHS & LD & DVD
- Going Home(1993年) : VHS & LD
- Movin' On(1993年): VHS & LD
- Paul Is Live(1994年) : VHS & LD & DVD
- In The World Tonight(1997年) : VHS & LD & DVD
- Live at the Cavern Club(2000年) : DVD
- Wingspan(2002年) : DVD(「ウイングス」&「ポールのソロ」)
- Back In The U.S.(2002年) : DVD
- The Animation Collection(2004年): DVD
- In Red Square(2005年) : DVD
- Space Within Us(2006年) : DVD
- The McCartney Years(2007年) : DVD
- Good Evening New York City(2009年) : DVD
[編集] 主な使用楽器
[編集] ベース
- カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(1本目 1961年製)
- 最初に入手した左利き用500-1。デビュー前よりキャバーン・クラブなどで使用していたため、通称キャバーンベースとして知られる。ヘッドのロゴが縦書きになっているタイプ。リア・ピックアップがフロント・ピックアップのすぐ隣についており、二つのピックアップの間隔が狭いことが2本目との最大の違いである。それまでビートルズのベーシストだったスチュアート・サトクリフが脱退しポールがベーシストに転向するにあたり、ハンブルクの楽器店で購入。ヘフナーを選んだ理由としてフェンダーベースより格段に安価であったこと、左利き用のベースがこのヘフナーしかなかったこと、シェイプが左右対称で左利きのポールが持っても違和感がなかったこと、ボディシェイプが「ビートルズ」の由来であるカブトムシ(beetle) に似ていることなどが挙げられている。またショートスケールで弾きやすい上に、ベースとしては非常に軽く、肩がこらないためポール本人はとても気に入っているそうである。1963年に2本目のカール・ヘフナーを購入後は、コンサート時にスペアとしてバックステージに待機させていた。1965年頃には赤みの強い3トーン・サンバーストの再塗装を施し、破損していたピックアップのエスカッションを一体型に作り直す。1968年にはシングル「レボリューション」のレコーディングで久しぶりに使用し、同曲のプロモーションビデオでも使用。さらに1969年の「ゲット・バック・セッション」でも使用していた。「ゲット・バック・セッション」終了後に盗難にあったらしく現在ポールはこのベースを所有していない。
- カール・ヘフナー・500-1(Karl Höfner 500-1)(2本目 1962年仕様の1963年製)
- 2本目に入手した左利き用500-1。1963年10月頃入手。ヘッドのロゴが横書きの筆記体になっているタイプ。二つのピックアップの間隔は1本目より広めになっている。ポールのトレードマークとして有名になったのはこの2本目である。1964年まではレコーディング・ステージ双方においてポールのメインベースとして使用された。ビートルズ時代は、ストラップはネックエンドとボディの隙間に巻き付ける専用の物が用いられていた。1965年にリッケンバッカー・4001Sを手に入れてからはレコーディングに使用される頻度が減ったが、ステージに於いては1966年にコンサート活動を停止するまでメインベースとして使用された。1966年8月のビートルズ最後のアメリカツアーではジョージのエピフォン・カジノとともにピックガードが取り外された( ポールによるとその後ピックガードは紛失した)。1967年、シングル「ペニー・レイン」のプロモーションフィルムに登場して以降はレコーディングに使用されることもなく表舞台にも一切出なかったが、1969年の「ゲット・バック・セッション」で1本目とともにメインベースとして再登場し、アップル屋上でのライブでも使用された。ビートルズ解散後およびウイングス結成後は、レコーディング・ステージともにリッケンバッカー4001Sをメインにしていたため表舞台に出ることはなかった。1974年頃のウイングスのリハーサル風景を撮影した写真の中でアンプに立てかけてあったり、ギタリストのジミー・マッカロックが逆さにして弾いているショットが残されているが、ウイングス時代を通してレコーディングに使用されたことは一度も� ��いと思われる。
- 1980年、ソロ名義で発売されたヒットシングル「カミング・アップ」のプロモーションビデオの中でポールがビートルズ時代の自身に扮し、このヘフナーを抱えて登場。続いて1982年の「テイク・イット・アウェイ」のプロモーションビデオでもこのヘフナーを演奏したが、レコーディングには使用されていないと思われる。この時期にはストラップが交換され、ヘッドのナット付近に結び付けるタイプのものが用いられていた。
- 1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッションにおいて、共作者のエルヴィス・コステロの勧めで再びヘフナー使用を決意。この際に本格的なリペアを施し、「マイ・ブレイブ・フェイス」「ディス・ワン」などの主要曲のレコーディングに使用。続いておこなわれたワールドツアーでは、1969年のアップル屋上ライブ以来20年ぶりにライブ演奏に使用し、ビートルズ時代のヒット曲も多数演奏した。1993年の2度目のワールドツアーからはメインベースとして、ウイングス時代の曲もヘフナーで演奏するようになり、以降コンサート・レコーディング双方に於いて再びメインベースとして使用され続けている。また1989年のワールド・ツアー前に、ボディ裏のネック付け根にロック式のストラップピンが取り� �けられる改造が行われている。
- なお、1993年の2度目のワールドツアーまで、ボディーサイドに1966年のビートルズ最後のコンサートツアーのセットリストが貼ってあったが、現在は剥がされている。2005年頃に、それまで40年以上酷使してきたオリジナルの2連ペグ(長方形の形状でペグボタンの色は飴色で形も薄く小さい物)は破損したのか、当時流通していたHofner純正リイシューパーツ2連ペグ(長方形のペグボタンはパール模様で厚く大きさもオリジナルのより2周り程大きい物)に交換され、現在(2010年4月)もこの状態で使用されている。1990年代のツアー時には2本目(1962年仕様の1963年製)のヘフナーをメインベースとして使用しており、そのバックアップ用として2本目の仕様に近いオールドのレフティ・ベース(3本目 1963年製)をスタンバイさせていた。この3� �目はPV『OFF THE GROUND』で空飛ぶHofnerとして目にする事が出来るが、コントロール・パネルの位置が2本目に比べて上部に付いているので容易に見分ける事が可能。 その後、2008年頃のツアーではキャバーン・タイプの新しいヘフナー(50周年記念ピックガード付き,2006年製)がスペアとして常備されていたが、最近(2010年)のライブでは1962年リイシューモデル20/40の最初期ロット(ピックガード無し,1995年製)に変わっている。 また近年、1964年頃にカール・ヘフナー社からポールに贈られたと言われるゴールド・パーツ付きのヘフナーがオークションに出品された(落札はされなかった)が、ポール自身はこのヘフナーを「所有したことがない」と明言。実際にポールに贈られたことは事実のようであるが、このヘフナーを手にしている写真などが一切存在� ��ず、また本人はまったく覚えていないらしい。本人が使用することなく他人に譲ったのか、ポール自身の手に渡る前に第三者の手に渡ったのかなど真相は一切明らかになっていない。
- リッケンバッカー・4001S(Rickenbacker 4001S)(1964年製)
- リッケンバッカー社より贈呈された左利き用ベース。当時イギリスではリッケンバッカーは独自のモデルを展開しており、ドット・ポジションマーク、ノンバウンドボディの形状であるこのベースは#1999と呼ばれていた。通常の4001はバウンドボディにトライアングル・ポジションマークであったがクリス・スクワイア、ジョン・エントウィッスル、ピート・クウェイフといった有名ベーシストがこぞって#1999を使用していたことから、4001Sとしてアメリカでも販売されることとなったものである。トラスロッドカバーは通常の右利き用タイプなので、肩に吊すと先が上あがりになっている(通常は下さがり)。同社製ホースシュー・ピックアップが取り付けられ、ブリッジユニットはミュートが出来るようになっている。500/1と比べ硬く引 き締まったサウンドが特徴。1965年の「ラバー・ソウル」レコーディングセッションからは、レコーディングにおいてのみメインベースとして使用されはじめ、1966年にはコンサートに於いてもスペアとしてバックステージに待機。1966年6月の来日公演にも持ってきていた。当初はファイア・グローと呼ばれる赤をぼかした色であったが、1967年にはジョンのギブソン・J-160E、ジョージのフェンダー・ストラトキャスターとともにサイケデリックな塗装が施され、1969年の「ゲット・バック・セッション」中に塗装を剥がされ、木の地肌を露出したナチュラル仕上げを施される。ビートルズ解散後、1971年にはボディーシェイプが削られ、全体がより丸みを帯びた姿になった。その直後に結成されたウイングス時代を通して、カール・ヘフナーに代 わるポールのメインベースとして有名になった。1974年には、ビートルズ時代の1965年に損傷して一部が欠けていたピックガードを新品に交換し、ピッキングの邪魔になっていたリアのホースシュー・ピックアップをハイゲイン・タイプに交換している。
- ウイングス解散以降もレコーディングやプロモーションビデオで使用され、1984年の映画「ヤァ!ブロードストリート」にも登場したが、1989年のアルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」レコーディングセッション以降はほとんど使用されていない。ただし、2002年からのワールド・ツアーではサブとしてスタンバイされており、同年の日本公演にも1966年同様持ち込まれていた。なお、現在の写真を見るとリアピックアップが再びホースシュー・タイプに交換されているようである。
- リッケンバッカー・4001S(Rickenbacker 4001S)(1970年代製)
- 1970年代製でスリーピースネックの4001S。1964年製と違いヘッドのウォルナットの羽部分はナチュラルカラー。あまり詳細は知られていないが1970年代前半にレコーディングで使用した説がある。そして1964年製のリアピックアップをハイゲインに交換した際のパーツ取りという説もある。
- ヤマハ・BB-1200L
- 1980年の来日公演決定の際にヤマハ社よりプレゼントされたもの。1979年の英国ツアーや「テイク・イット・アウェイ」PVなどで使用。
- フェンダー・ジャズベース
- ビートルズ後期より2本使用。どちらも1967-1968年製。1本は右利き用のもの(ジョージ・ハリスンの使用モデルを譲り受けた説がある)を弦を左用に張り替えて使用、もう1本は左用。
- ウォル・マッハII(Wal Mach II)
- ポールのために特注制作された5弦ベース。『フラワーズ・イン・ザ・ダート』録音と1989-1990年のツアーで使用。
- ケイ ジャズ(Kay Jazz)
- 1960年代に製造されたフル・アコースティック構造のエレクトリック・ベース。ウィングス初期のライヴと「エボニー・アンド・アイボリー」PVで使用。
- ウッドベース(コントラバス)
- 1974年にリンダがナッシュヴィルで購入してポールにプレゼントしたもの。エルヴィス・プレスリーのベーシスト、ビル・ブラックが「ハートブレイク・ホテル」の録音で使用したといわれる金色のモデル。
[編集] ギター
- ビートルズ時代までは左利き用のギターは入手困難であったため、右利き用のギターを多く使用している。ポールは普通の右利き用の弦の張り方のまま、ギターを左に構えて演奏することも可能であるが、左利き用の弦の張り方の方がしっくり来るようで、右利き用はすべてナットとブリッジを左利き用のものに交換して使用している。
[編集] jeanettaジョーンズに何が起こっている
BC">アコースティック・ギター
- 1964年製。ビートルズ時代の1965年より使用開始。右利き用。
- 1967年より使用開始。ビートルズ時代は右利き用、解散後もウィングス時代には右用、ウィングス解散後に左用を使用。
- マーティン・OOO-18 (Martin OOO-18)
- マーティン・J-18 (Martin J-18)
- 1993年のワールド・ツアーで使用。左用。サウンドホール内に後付式のピックアップがガムテープで固定されている。J-18はマーチンのMサイズボディと同じながら厚みはDサイズの深いもの、ボディ下部の広がりでooo-18と見分けが可能。
- マーティン12弦ギター (モデル名不明)
- ギブソン・J-180 (Gibson J-180)
- 通称エヴァリー・ブラザーズモデル。ムスターシュ (髭形) ・ピックガードがサウンドホールの左右に貼られ、外見上は利き腕による区別がない。ウィングス時代からレコーディングやライヴで使用されている。
- タカミネ・NPT-010 (Takamine NPT-010)
- アルヴァレズ・YD-88BK(Alvarez YD-88BK)
- 日本のK・ヤイリの米国輸出モデル。左用。1989-1990年のツアーで使用。
- ウィングス時代に6弦のモデルと12弦のモデルを複数使用。いずれも右用。
[編集] エレクトリック・ギター
- 1962年製のサンバースト。右利き用。右利き用のビグスビー・ビブラート・ユニット付き。後年作られたジョン・レノンやジョージ・ハリスン所有のモデルとは、ヘッドの形状(オールド・スタイルのニューヨーク・ヘッド)、トラスロッドカバーにeマークがない、コントロールノブが黒い、ホーンの丸みが大きめ、といった点が異なる。アルバム『ヘルプ』のレコーディング・セッション以来、現在までのレコーディングにおけるメイン・ギターである。「涙の乗車券」や「タックスマン」などのリード・ギターは、このカジノによって演奏されている。ピックガードは1970年以後外されている。ストラップピンがネックヒールではなく、右のカッタウェイに付いている。2005年のアビー・ロード・スタジオでの『ケイオス・アンド・ク� �エイション・・・』の公開セッション時にもこのギターを使用。通常とは違い、ボディ裏までサンバーストがかかっている事から、一度ネック折れしたという説もある。ステージでは1973年のウィングスのヨーロッパ・ツアーで使用したのが最初。2005年の『Live 8』にて「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」をU2と演奏したときもこのギターを使用。近年のツアーでもスタンバイしており、2010年のマイアミ公演の「ペイパーバック・ライター」演奏時など、極稀にステージ上でも使用される。
- 少なくとも3本所有。すべて左利き用。(1)1989年にチープ・トリックのリック・ニールセンより購入した1960年製サンバースト。1989~90年のツアーに登場、以後ステージにおけるメイン・ギターとなる。ネックジョイント部分のサンバーストがかなり濃くなっている点が特徴である。同年代のレフティ仕様は確認されている個体が非常に少なく、かなり貴重な一本である事は確かである。(2)そのサブ、あるいはメンテナンス時に使用される現行品サンバースト。2009年時点ではペインティングが施されているのが『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ』DVDで確認できる。(3)妻リンダよりプレゼントされた1957年製ゴールドトップ。「ワンス・アポン・ア・ロング・アゴー」のPVや『夜のヒットスタジオDX』出演で使用後、 1989-1990年のツアーで使用。
- 1966-1969年に製造されたノン・リバース・ボディ。右利き用だが、ついているビグスビー・ビブラート・ユニットは左利き用。
- ダン・アームストロング/アンペグ・アクリル・ボディ・ギター
- 右利き用。『バンド・オン・ザ・ラン』セッションで使用。また、『タッグ・オブ・ウォー』期のフォト・セッションでもその姿が見られる。
- 1960年製2トーン・サンバースト。左利き用。ローズ指板。
- 左利き用も所有しているが、リアピックアップを交換し、ボディの一部を削って弾きやすくした右利き用を使用していたことがある。
- 右利き用のサンバースト。ビートルズ時代の1967-1968年に使用。ローズ指板。
- よく言われる360/12V64ではない。24フレット仕様の左利き用。『オール・ザ・ベスト』TVCMや『フラワーズ・イン・ザ・ダート』レコーディング・セッションなどで使用。
メインのレスポールとストラトキャスターは1960年製にこだわっており、おそらく1960年8月にザ・ビートルズとはじめてバンド名が出来たからと思われる。
1967年にイギリスの女優・ジェーン・アッシャーと婚約したが、翌1968年に婚約破棄されている。
直後1969年に結婚した最初の妻リンダ・マッカートニーとの間に、現在は写真家として活動している娘メアリー、ファッションデザイナーとして世界的に有名になったステラと長男ジェームズを儲けた。リンダが前夫との間に儲けたヘザーも、自分の娘として育て上げた。
2002年に地雷撲滅運動を進める元モデルのヘザー・ミルズと婚約を発表。前妻リンダの死後に出会った彼女とはその後正式に再婚し、2003年にはベアトリス・ミリーという名前の娘も生まれた。しかし、家庭を重視するマッカートニーと、世界を飛び回り家を空けることの多かったミルズとの関係にはすれ違いが生じた。その上、夫である彼の仕事に口を出して周囲のスタッフとトラブルを引き起こすミルズとの間には、次第に口論が頻発するようになったともいう。2006年にミルズとは別居した。ロンドンの裁判所は2008年3月17日における判決で、総額2430万ポンド(約47億円)をミルズさんに支払うよう命じた」と発表した。「ミルズは慰謝料・5450万ドル(約50億円)で不動産の購入・豪勢な海外旅行・募金活動を行ない、2年足らずで全て� �い切った」と報道される[4]。
2011年5月6日、4年前から交際のあったナンシー・シェベルとの婚約を発表。
2011年5月、ニューヨークポスト紙によると、婚約者であるナンシーにカルティエの5カラットダイヤモンドの指輪を贈ったことがわかった。この指輪は1925年のビンテージもので値段は65万ドル(日本円で約5,200万円)だという。婚約者であるナンシーはインタビューでポールからプロポーズの場所はカリフォルニア州だったことを明かし、「それは突然でした。そして彼が贈ってくれた5カラットの指輪にぞくぞくしました」と語った[5]。
2011年5月、『サンデー・タイムズ』が「英音楽界での長者番付」を発表し、マッカートニーが推定資産4億9500万ポンドで4位にランクインした[6]。
2011年9月14日、ナンシーとの婚姻予告届をロンドン市内の登記所に提出。同年10月9日に結婚し、ロンドン市内の公会堂で結婚式をあげた。
エヴァートンFCのファンであるが、2008年6月1日にはリヴァプールFCのホームスタジアムであるアンフィールドでライヴを行っている。
[編集] 環境保護活動
菜食主義者であり、熱心な環境保護活動家として精力的に活動している。最初の妻の娘ステラ、2番目の妻ヘザー・ミルズと共にPETAの会員でもある。また最初の妻のリンダ・マッカートニーも菜食主義者であった。
- 捕鯨が国際的な問題になった時「日本人は人間の友達を食べる!」「人間の友、クジラを喰う日本人は人肉喰い野郎だ」と非難した。
- 2000年3月29日、キツネ狩りの廃止が議論されているイギリスに対して『臭いの跡を追う猟』という代替案を提案した[7]。
- 2005年11月28日、PETAが作成した中華人民共和国での犬猫の虐殺動画を見た際、妻ヘザー・ミルズと共に「私はこんな野蛮な中華人民共和国では演奏しない。2008年の北京オリンピックを無視する。中華人民共和国製品は不買しよう」と人々に共闘を求めた[8]。
- 2006年3月2日、カナダのアザラシ猟に対する反対活動の最中ポール・ヘザー夫妻はカメラの前でアザラシの子供を抱き抱えた[9]。この行為はカナダの海洋哺乳類侵害罪に抵触していたが、起訴は免れた[10]。
- ミルズ元夫人の環境保護活動サイト(現在リンク切れ)
[編集] ポール死亡説
「ポール死亡説」(Paul is Dead)とは1969年にアメリカ合衆国イリノイ州立大学の学生新聞「ノーザン・スター」(同年9月23日付)に掲載された記事「ポールは1967年1月(1966年11月9日水曜日朝5時 という詳しい説もある)に自動車事故で死亡している」というものだ(「今いるポールは替え玉だ」というガセ記事を、WKNR-FMラジオが発表し広まった都市伝説のひとつで、替え玉が曲中に出てくるビリー・シアーズだと言うガセ情報も流れた)。その年までに発売されたビートルズのアルバムや楽曲に「根拠」と出来る箇所が数多く見つかった結果、多くの人に信じられてしまった。
因みにポール・マッカートニーは2012年4月現在生きている。
[編集] ストーリー
諸説あるが、最も"一般的な話"は以下の通りである。
1966年11月9日(11月9日を英語にすると、"November 9"。レボリューション9に出てくる"Number 9"ともとれる)水曜日にビートルズのポール・マッカートニーが死んだ。ポールは、車に乗りかわいい女性をみていたため、信号が変わったのに気づかず-He didn't notice that the lights had changed (ア・デイ・イン・ザ・ライフ・ラヴリー・リタ) 信号を無視した。
ポールは、棒に衝突し(自動車事故の音は「レボリューション9」で聞こえる)、水曜日の朝5時に死亡を宣告された。そのニュースが報道されなかったので、誰もポールが死亡したことを知らなかった(シーズ・リーヴィング・ホーム)。ポールは亡くなりポールには新聞は配達されない。そして、そのことを報道していない(「水曜朝に新聞は来なかった」(レディ・マドンナ))。葬列は、死後少し後に(アビイ・ロードアルバムカバー)行われた。
数日後ポールのそっくりさんコンテストの勝者・ウィリアム・シアーズ・キャンベル(ビリー・シアーズ)が、死んだ本人と入れ替えられた(サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド / ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル)。
[編集] ジャケットや楽曲に存在する「根拠」
代表的な例は以下の通り。
- アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』
- 表ジャケットの花で形作られたギターは左利き用(ポールは左利き)で、弦を表す松葉が4本ある事から「ポールのベースギター」と推測され、このジャケット写真自体がポールの葬儀 (花がある場所は墓) を暗示している。松葉が3本という説もあるが3本なら「3人のビートル (ズ) 」を表しているとされる。
- 上記のベースギターをよく見るとポールの存在を確認するような(大まかな字で)「PAUL?」「PaUL?」と表されている。
- "BEATLES"と上記のポールのベースが花でかたどられているが、BEATLESの LESに上記のPaUL?、そしてLES Lの上にフィギュアがありそれをIと読めば、LIES PaUL?と読める。
- 表ジャケットでポールの頭上に手がかざされているが、これはインドで死のサインを表す(マフィアのサインという説もある)。
- 表ジャケットの花で描かれた「THE BEATLES」の先に「○」が描かれており、これは"BE AT LESO"(LESOにいる)の意味で、LESOとはポールを埋葬した島の名前であるとされる。
- 表ジャケットの下の赤い服を着た像があるが、これは死のシンボルで、その像の4本の指は蝋人形と実際のポールを指している。
- 表ジャケット右に見られる人形の服に、"Welcome the Rolling Stones" (ローリング・ストーンズを歓迎する、ようこそストーンズ の意) と書いてある。これはポールが死んだ替わりに、ライヴァルであるストーンズにメンバーを要求したとも見られる。
- 表ジャケットの上記の赤い服は血を意味し、交通事故当時ポールが乗っていたとされる白い車がある。そして死人を埋葬する際の手袋もある。
- 表ジャケットにある割られた頭の人形 (福助人形のことだろう。割られているように見られるのは丁髷) はポールの致命傷を表している。
- 表ジャケットのソニーのテレビは、電源がつけられないらしくこれは「ポールの死について報道しないで欲しい」ということを表しているらしい (サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのPVではテレビがついている) 。
- 表ジャケットの中心に鏡を立てると、"BEATLES"が"BENICE3"と読める。
- 表ジャケットのポールは一人だけ木の楽器 (イングリッシュホルン) を持っており、これは棺を意味する(本当の楽器はチューバだがリンゴの蝋人形の足に使われている)。
- 表ジャケットで一人だけ寒色の服(青)で、他は暖色である。これは"命を落とし冷たくなった"ということだろう
- 表ジャケットでポールの手が彼の心臓に行っている。これは死者を神聖にする宗教的なシンボルである。
- ジョン、リンゴ、ジョージは適当な角度を付けて立っているが、ポールはまっすぐに体を向けている。これはポールが切抜きのように見える(ポールの死体を他の3人が支えているようにも見える)。だが勿論撮影に使われたのは本物のポールであり、あまり公にされていないジャケットのオフショット(4人が離れて写っている写真)からもそれが見られる。
- ジャケット見開き(CDブックレットでは9ページ)のポールの腕にワッペンを付けられていて、そのワッペンには"O.P.D."と書いてある。これは"Officially Pronounced Dead"(正式に宣告された死)の略である(実際には、これはカナダで買ったO.P.P.のワッペンで"Ontario Provincial Police"(オンタリオ州警察)の略である)。
- 裏ジャケの写真でポールだけが背中を向け、体型が違う。また、頭上に"without you"の文字がある(この写真撮影の際ポールはアメリカに滞在しており、ビートルズのロード・マネージャーであるマル・エヴァンスが代役を務めたため背中を向けている、という通説があったが、CD化の際に公表された写真によって、ポール本人であることが証明された)。
- 収録曲「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」に「Billy Sears!」が「Bill is here(ビルはここに(いる))」とされ、ビルという替え玉が見つかったとされる(シアーズが替え玉の説で考えるとおそらく、「ビリー・シアーズ=ビル」とも捕らえられる)。
- 収録曲「シーズ・リーヴィング・ホーム」でポールが死んだと言われている「水曜日の朝」のことを歌っている。
- 収録曲「グッド・モーニング・グッド・モーニング」で「お前を助ける方法は無い」と歌っているが、これはポールの事を歌っている。
- 収録曲「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド (リプライズ)」で最後に3回程シャウトしているが、そのシャウトの内の最初の2回が"Paul is dead!"と"Really dead!"と聞こえる。
- 収録曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」で自動車事故が取り上げられるが、この事故を起こしたのはポールである。
- 最後で聞ける、通称「Inner Groove(《レコードの》内側の溝 の意)」を逆回転させると「Paul will be back as superman」と聞こえる。これは、ポールが死亡していることを暗に表している。
- EP(アメリカではLPアルバム)およびTV映画『マジカル・ミステリー・ツアー』
- ジャケットおよび同映画での「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のシーンでメンバー4人が被り物をして登場するが、次のアルバム『ホワイト・アルバム』の「グラス・オニオン」の歌詞によると、ウォルラスに扮していたのはポールであり、これは「ポールが死んだ」という証明(実際にウォルラスに扮していたのはジョン)。
- 表ジャケットMAGICAL MYSTERY TOURの"TOUR"の直径に当たる部分に鏡をおくと"lOOK(見ろ)"と見える。
- ジャケットに☆で「BEATLES」と描かれているが、逆に見ると「5371038」(または5311438)と読める。この番号をポールが死んだとされる、水曜日の早朝に電話(537-1038)にかけるとビリー・シアーズが電話に出る。
- 裏ジャケットに"RIP"と見えるところがある。これは唇の傷と、"Rest In Peace"を表す。
- 収録曲「ブルー・ジェイ・ウェイ」でバックコーラスが"Paul?","Died","Paul is very","Bloody"と聞こえる。サビの"Please,Don't be long"を逆再生すると"Paul is bloody"と聞こえる。
- 収録曲「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の最後に聴けるリア王の台詞に"Bury my body..."や「Oh, untimely death! Death. Is he dead?」とポールの死を表している。また、"Sitting in.."の前の"I am the walrus.Goo goo g'joob"後のブレイクに"Paul is bloody"と聞こえる。
- 収録曲「アイ・アム・ザ・ウォルラス」の最後の"Everyone, got one.Everybody('s) got one"を逆再生すると、"Paul is dead"ときこえる(個人差があるが、これはPaul is deadとかけ離れている)。
- 収録曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の終わり間際に2回聞こえる呟きが「I buried Paul(俺はポールを埋葬した)」と聞こえる(曲を作ったジョン・レノンは「『Cranberry Sauce (クランベリーソース』と言っているのだ」と述べているが、1995年に発売された「ザ・ビートルズ・アンソロジー2」収録のバージョンで、オリジナル以上に「Cranberry Sauce (クランベリーソース) 」と言っているのがはっきり聴き取れる)。
- 映画の「アイ・アム・ザ・ウォルラス」演奏シーンおよびブックレットで、リンゴのバスドラムに"Love the 3 Beatles"と意味する文字が入っている。そしてポールだけ靴を履いていない(ように見えるだけか? だが、脱いだ靴らしいモノがバスドラムの近くにある)。
- 映画のワンシーンおよびブックレットに、何回かポールの頭に手があげられている。
- 映画のワンシーン(ヴィクター・スピネッティが軍曹に扮し出演するシーン)および同シーンを撮影したEPのインナー写真において、ポールの前に"I was"の看板(?)があるが、これは既にポールが故人であることを示している。
- 映画のラスト「ユア・マザー・シュッド・ノウ」のシーンで、ポールだけが胸に黒薔薇をさしており、これは死者を表す(これは赤いバラが売り切れていたからである)。そして、花束を持っている。これは「葬式用の花束だ」と言う人も少なくはないが、そのような花ではない。
- ブックレットにディナー (?) のページがあるが、その近くにポールのレントゲン写真がある。
- ブックレットに魔法使いに扮し、ペンを持っているポールがいるが、左利きのポールが右でペンを持っている。
- アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)
- 収録曲「バック・イン・ザ・USSR」での最後のシャウトを逆再生すると"Everyone's dead! I admire! And I understand Paul!"と聞こえる。
- 収録曲「アイム・ソー・タイアード」の(ムッシュウを売るという内容をジョンが言っている)小さな声を逆回転すると"Turn me on, dead man"(俺を目覚めさせてくれ、死人よ)と"Paul is dead. Miss him. Miss him. Miss him.(さびしい…ポールがいなくて!)"と言っている。死人とはポールの事。
- 収録曲「バースデイ」の"dance!"とコーラスの"birthday"を逆回転すると"Dead!"と聞こえ、"I would like you to dance Take a cha-cha-cha-chance"は"He's dead you sing halleluja"と聞こえる。
- 収録曲「レボリューション9」の冒頭の「Number Nine」の声を逆回転して聞くと「Turn me on, dead man」と聞こえる。
- アルバム『イエロー・サブマリン』
- 表ジャケットでポールの頭上にジョンの手がかざされているが、これは死者を表す。しかも手の指は3本で、ポールのいない「3人のビートルズ」を意味する。
- 収録曲「イエロー・サブマリン」(アルバム『リボルバー』にも収録)の間奏で「ポールはホモだ!(Paul is queer)」と言っている(これは「Cut the Cable! Drop the Cable」と言っているだけ)。この発言でポールに興味を引かせないようにするためらしい。
- 収録曲「オール・トゥゲザー・ナウ」の最後の"All together now!"を逆再生すると"I buried Paul"に聞こえる。
- 映画『イエロー・サブマリン』
- リンゴがイエロー・サブマリンにつけられているシーンで、ネコを見ている人がいるが、ネコを呼んでいる言葉が"Paul, Paul..Paul.
- アルバム『アビー・ロード』
- 表ジャケットの写真でポールのみ裸足であり、これは死者を意味する(同日に撮られた別の写真ではサンダルを履いている。ポールは裸足になった理由を「暑かったからだ」と述べている)。
- 表ジャケットの写真で、ポールのみが右脚を前に出しており(他の3人は左脚)、ポールが遊離して見える(これは目立ちたがり屋のポールの発想という説がある)。
- 表ジャケットの写真で、左利きのポールが右手にタバコを持っており、これはポールが替え玉である証拠である(しかし実際には「生前」のポールも右手で持つことがあった。たとえばビートルズの訪日記者会見(1966年6月)の際、右手でタバコを持っているのがDVD『ザ・ビートルズ・アンソロジー』で確認できる)。
- 表ジャケットの写真で、後方に写っているビートルのナンバー・プレート「28IF」は「もし(IF)ポールが生きていたら28歳だ」とのメッセージである(実際には「281F」であり、また1942年生まれのポールは当時27歳だった。これに対して「東洋思想に傾倒していたビートルズは数え年を使用していた」という反論や、挙句には「胎児の頃を勘定に入れた」という反論まであった)。
- 表ジャケットの写真はポールの葬列を意味していて、ジョンは神父、リンゴは葬儀屋、ポールは死体、ジョージは墓堀り人夫を表している。
- 表ジャケットの写真で、ポールが目をつぶって歩いている。
- 裏ジャケットの写真の"THE BEATLES"と書かれたタイルにひびが入っており、グループの分裂を暗示している。しかもそのヒビは複数形の"S"に入っている。
- 上記の"THE BEATLES"の左側に黒く丸い跡のようなものがあるが、その8個の丸を繋ぐと ザ・ビートルズは「4」人だが「3」になる。これは通常のCDでは確認できない。
- 収録曲「カム・トゥゲザー」で、"one and one and one is three(直訳:1+1+1=3だ)"と言っている。この意味は上記の跡の3と同じである。
- 収録曲「サムシング」を逆転再生すると、"where the Beatles's Paul?(ビートルズのポールはどこにいる? ということだろうか)"と聞こえる(なんと聞こえるかは諸説ある)。
- 収録曲「オー!ダーリン」の"Oh,darlin'!"を逆回転させると"In me lives he."に聞こえ。"Oh"を逆回転させると"Paul"と聞こえる。
- 収録曲「ゴールデン・スランバー」を逆再生すると"Right here with me","walk out naked"と聞こえる。
[編集] 本人の反応
「ポール死亡説」が広まった当初、ポール本人は無視を決め込んでいた(なお、この時ポールはジョン脱退のショックで精神的に追い詰められており、スコットランドのキンタイア岬の農場に引きこもっていた)。だが、あまりに噂の広がりが速かったために、ついに10月24日にBBCの記者が農場まで押し掛ける事態に発展する。結局ポールは取材に応じ、インタビューがラジオで放送された。その後、ポールはアメリカの雑誌「ライフ」誌のインタビューにも応じ、「こんなのはバカげている。僕が死んだ死なないと噂する暇があったらもっとほかにやるべきことがある。それをやるべきだ」という声明を発表、同誌は「ポールはまだ我々と共にある」という見出しと、ポール夫妻と子供たちの写真と共に11月7日に発売された。こうしてポ ール死亡説にはピリオドが打たれた。
ポール本人がこの噂を耳にした当初は「『僕が死んだ』なんて大ニュースじゃないか。どうしてもっと早く僕に言ってくれないんだ」などと知人に話していた事もあったという。
なお、この噂の本当の発信源はビートルズ自身で「ジョークとして」あるいは「噂がどのように世間に広まって行くかの実験として」意図的に流されたものだ、とする説を唱える者もいる。
ちなみに、1993年発売のライブアルバム『ポール・イズ・ライブ』のジャケット写真は、ポール死亡説の根拠の一つとされた『アビイ・ロード』のジャケットと同じ、アビーロードスタジオ前の横断歩道を登場させ、タイトル("Paul Is Live"を直訳すると「ポールは生きている」(「生きている」の意味の"LIVE"とコンサート・ライヴの"LIVE"とのダブルミーニングになっている)・車のナンバー"51 IS"(51歳です=生きています)も含めて、死亡説を逆手に取ったパロディとなっており、当時のインタビューでは「今回はちゃんと靴を履いている」と発言している。
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