2012年5月6日日曜日

マチャ@平城京の「洋楽独り言」 Ver.3:So-netブログ


今から14年前の今日。1997年9月6日。

世界中がこの歌に涙しました。

Elton John 「Candle In The Wind」

8/31、パリでの交通事故で突然にこの世を去ったプリンセス・ダイアナ。その1週間後の葬儀は「国民葬」として執り行われ、慣習や前例を破って様々な試みが取り入れられましたが、その象徴となったのが大親友エルトン・ジョンの歌唱でした。

二人が初めて出会ったのは81年、ダイアナさんがまだチャールズ皇太子と婚約中のことでした。二人はすぐに意気投合し、チャリティ活動などを通じて長年にわたり親交が続きました。

エルトンは英国王室とは昔から交流がありました。詳しくは過去記事「君はプリンセス」(4/28の記事)をご覧ください。

92~93年頃の二人。

大� ��友だった二人ですが、97年の初めに大げんかをしてしまいます。チャリティへの考え方の相違によるものだと伝えられていますが、二人は喧嘩別れをしてしまいました。

そしてこの年の7/15。二人に、そして世界中にショッキングなニュースが飛び込んできました。

デザイナーのジャンニ・ヴェルサーチが射殺されたのです。

二人の共通の友人であり、とりわけエルトンは90年代のステージ衣装や照明、アルバムジャケットのデザインを任せるなど仕事の上でも親密な関係でした。(現在、エルトンの衣装は山本耀司さんが担当しています)

ヴェルサーチの葬儀では、エルトンは悲しみをこらえきれずに泣き崩れました。

その時、隣に座って優しく慰めたのがダイアナ妃でした。

子供のように泣きじゃくるエルトンを、母親のように優しく慰めるダイアナ妃・・・二人はこの日、仲直りできたのでした。

8月半ばには、ダイアナ妃は恋人のドディ・アルファイド氏と南仏へバカンスに出かけます。この時、コートダジュールのエルトンの別荘も訪れ、発売間近のエルトンの新譜を楽しんだそうです。

エルトンの大豪邸や世界各地にある別荘についても、以前取り上げました。


我々は、ニュージャージー州のテープのすべてのビデオで愛したことはなかったような

スーパースターの「家庭訪問」(その1)

スーパースターの「家庭訪問」(その2)

そして、運命の8/31・・・パパラッチに追われたダイアナ妃とドディを乗せた車は運転を誤りトンネルの側壁に激突。あまりにも突然に、ダイアナ妃の人生は幕を下ろしたのです。

当時の彼女の立場は難しいものでしたが、世論とブレア首相(彼はエルトンとも親しい間柄でした)に押された王室は「国民葬」を受け入れ、ダイアナ妃の遺族の希望で、エルトンが追悼歌を歌うことが決まりました。当初は「Your Song」を歌うと報じられましたが、エルトンが実際に歌ったのは別の曲・・・

それが、「Candle In The Wind」のダイアナ・バージョンでした。

オリジナルは73年にエルトン自身が歌ったもので、80年代にもリバイバルヒットした名曲です。

実はこの時、エルトンと作詞家のバーニー・トーピンの間で大きな勘違いがあり、それによってこの曲の「ダイアナ・ヴァージョン」が生まれることとなりました・・・

エルトンは当初、全くの新曲を作ることを考えました。そしてバーニーに電話をかけ、「Candle~のような」新しい歌詞を書いてほしい、と依頼しました。

しかし、ふたりともショックが大きく混乱していたのでしょう。言い間違いか聞き間違いかは不明ですが、バーニーは「Candle~の」新しい歌詞を頼まれたと思ったのです。

数時間後、エルトンにバーニーから歌詞がFAXで届きます。それを見たエルトンは驚きましたが、歌詞の素晴らしさに感動し、� ��詞を書き換えた、いわば「替え歌」として歌うことを決心したのでした。

それがあの、「Goodbye England's Rose」(さようなら、英国の薔薇よ)で始まる追悼歌だったのです。

しかし、何故「薔薇」なのでしょうか?オリジナルの歌詞には薔薇という単語も、想起させるイメージも出てきません。もちろん、薔薇はダイアナ妃にふさわしい感じはしますが、少し唐突な気もします。

僕はそう思っていたのですが、ある日、興味深い事実に突き当たりました。

僕の手元にあるバーニー・トーピンの詩集。エルトンの曲の歌詞を収録したものなのですが、この詩集の「Candle~」のページを見ると・・・

何と、薔薇の絵が載っているのです!


人種的プロファイリングとは何でしょうか。

これは僕の憶測に過ぎませんが、バーニーは歌詞の依頼を受けたときにこの詩集を手に取り、昔書いたオリジナルの歌詞を何度も読んだのでしょう。そして、そこに描かれた薔薇とダイアナ妃のイメージを重ね合わせて、あの新しい歌詞を作っていったのではないでしょうか?

確証はありませんが、僕はそう思っています。

オリジナルは73年に作られ、アルバム『Goodbye Yellow Brick Road』に収録。シングルとしても当時全英11位の大ヒットとなり、その後もエルトンの代表的なバラードとして世界的に愛され、ライブでも定番曲として親しまれてきました。88年にはライブ版もリバイバルヒット(全米6位)しています(実際に収録されたのは86年のツアー時)。

僕が初めて行ったエルトンのライブ(95年2月の大阪城ホール)でも、この曲はアンコールの最後の曲として歌われました(ちなみにオープニングは「Your Song」でした)。その2年後に、ああいう形で日本でも注目を集めることになるとは、当時は思いもしませんでした。

「Candle In The Wind」(73年のオリジナルヴァージョン。youtubeへリンク)

当時のエルトンは今の低い声とは違い、ファルセットヴォイスが特徴的でした。昔のファンは今の低い声を聴いて「別人のようだ」と言いますが、僕はリアルタイムで聴いた頃にはすでに今の低い声だったので、70年代のエルトンを聴くと逆に「別人のようだ」と思ってしまいます。

人気の絶頂期にあったエルトンですが、それはエルトン一人の力で達成されたものではありません。歌詞を書くバーニー・トーピンの存在は極めて大きいですし、バックバンドの演奏も大きく貢献しました。

特にこの曲は「チーム・エルトン」としての見事なコラボレーションだと思います。エルトンのピアノで始まり、バーニーの印象的な歌詞があり� �そしてドラムのナイジェル・オルソン、ギターのデイヴィー・ジョンストン、ベースのディー・マレーというバンドの見事な演奏とバックコーラス、そしてそれらをまとめるプロデューサー、ガス・ダッジョン(デヴィッド・ボウイのスペース・オディティのプロデューサーとしても知られています)・・・ディー・マレーとガス・ダッジョンは他界しましたが、ナイジェルとデイヴィーは今でもバンドのメンバーとしてエルトンを支え続けています。

オリジナルの歌詞は、マリリン・モンロー(本名、ノーマ・ジーン)の人生を「風の中の火のように」と歌っています。

「風の中の火のように」


誰が米国に最初のユダヤ人を任命

さよなら、ノーマ・ジーン
知りあうことはなかったけれど・・・
いつも自分を見失わない気高さを持った人でした
あなたの周囲にはうまく取り入ろうとする者ばかり
映画のセットから出てきた彼らは
あなたに甘い言葉をささやき
あなたをこき使い
名前さえ変えさせてしまいました

僕にはそんなあなたの人生が
風の中の蝋燭のように思えます
雨が降り出しても すがるものさえ知らずにいる
孤独な一本の蝋燭
あなたをもっと知りたかったけれど
まだほんの子供だったので・・・
あなたという蝋燭は
ずっと前に燃え尽きてしまいました
そして伝説だけが残ったのです

孤独とは非情なもの
演じたこともないほどの非情な役
ハリウッドはスーパースターを生み出し
あなたの苦しみはその代償でした
あなたが亡くなった時でさえ
新聞はあなたを追い回して
こんな風に書き立てたのです
「マリリン、全裸で発見さる」と

僕にはそんなあなたの人生が
風の中の蝋燭のように思えます
雨が降り出しても すがるものさえ知らずにいる
孤独な一本の蝋燭
あなたをもっと知りたかったけれど
まだほんの子供だったので・・・
あなたという蝋燭は
ずっと前に燃え尽きてしまいました
そして伝説だけが残ったのです

さよなら、ノーマ・ジーン
知りあうことはなかったけれど・・・
周囲にはうまく取り入ろうとする者ばかりでも
いつも自分らしさを失わない気品に溢れた人でした

さよなら、ノーマ・ジーン
これは22列目に座る若者からの言葉
あなたのことをマリリン・モンローよりも魅力的だと
思っている男からの言葉です

僕にはそんなあなたの人生が
風の中の蝋燭のように思えます
雨が降り出しても すがるものさえ知らずにいる
孤独な一本の蝋燭
あなたをもっと知りたかったけれど
まだほんの子供だったので・・・
あなたという蝋燭は
ずっと前に燃え尽きてしまいました
そして伝説だけが残ったのです


この歌は、エルトンがマリリン・モンローの大ファンだからだとか、バーニーがモンローの死を悼んで追悼曲として作られた、とよく書かれています。しかしこれは、バーニー本人が明確に否定しています。

ドキュメンタリー作品やいくつかのインタビューでバーニー・トーピンは、「まるで自分がモンロー・フリークのように言われてね・・・別にマリリン・モンローじゃなくてもよかった。ジェームス・ディーンでも良かったんだ。マスコミに追いまわされ、誤解されながら、若くして亡くなった人物がテーマだからね」といった内容のコメントをしています。

確かに歌詞をよく読むと、ジェームス・ディーンでもそのまま当てはまる内容で、追 悼曲というよりハリウッド批判、マスコミ批判の曲であることがわかります。

マリリン・モンローと立場は違えど、世界中の注目を集めたダイアナ妃。そしてその最期も、パパラッチに追い回されての事故でした。そう考えると、オリジナルの歌詞もまた、ダイアナ妃の人生と重なって聴こえてきます。

勘違いから生まれた追悼歌「英国の薔薇」ですが、これもまた運命的なものを感じますし、ダイアナ妃にふさわしいものだったと言えるでしょう。

あの突然の悲劇から14年。追悼版とオリジナル版、ふたつを聴き比べながらダイアナ妃のことを思い出して頂けると、エルトンのファンとしてうれしいです。

<補足として>

この曲について、エルトンとバーニーはもちろん、関係者が当時のことを� ��説した映像があります。

Classic Albums: The Making of Goodbye Yellow Brick Road Part 5

アルバム『Goodbye Yellow Brick Road』の製作過程を検証したDVD作品です。これはパート5の動画です。興味を持たれた方は、ぜひ他のパートもご覧ください。

あと、前記事「夏の夜の夢~平城宮跡・天平祭」も、「風の中の火のように」というフレーズがピッタリの写真を多数掲載しています。古都・奈良の幻想的な風景をお楽しみください。前記事へも多くのナイスとコメント頂き、ありがとうございました。



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